国王・世子を毒殺した疑いが強い朝鮮王朝五大王族とは?

このエントリーをはてなブックマークに追加

朝鮮王朝では国王や世子が毒殺された、という疑惑が多い。そうした疑惑の張本人になっている王族の5人を順に取り上げてみよう。

(関連記事:なぜ朝鮮王朝の王の食膳は食べきれないほど豪華だったのか?

◆世祖(セジョ)[1417~1468年]

首陽大君(スヤンデグン)という名でも知られる。4代王・世宗(セジョン)の二男で、世宗の長男が文宗(ムンジョン)だ。その兄は1450年に即位したが、わずか2年で急死した。世祖が毒殺したのでは、という疑いがある。結局、文宗の長男が6代王・端宗(タンジョン)として即位したが、世祖は端宗を脅して王位を奪った。その後は、端宗を復位させようという動きを徹底的に封じ、それを計画していた官僚たちを根こそぎ惨殺した。さらに世祖は、端宗が生きていると復位の動きがやまないと警戒し、端宗を庶民に降格させたうえで死罪にした。

◆文定王后(ムンジョンワンフ)[1501~1565年]

11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の正妻。我が子を王位に就かせるため、中宗の先妻の息子だった12代王・仁宗(インジョン)の暗殺を何度も狙ったと言われている。実際、仁宗が亡くなったときも、文定王后による毒殺という噂が流れた。我が子が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位すると代理で政治を仕切り、権力を独占して悪政を行なった。

ドラマ『オクニョ 運命の女』の文定王后(女優キム・ミスク)

◆仁祖(インジョ)[1595~1649年]

16代王。在位は1623~1649年。即位前は綾陽君(ヌンヤングン)と言われた。1623年、光海君(クァンヘグン)を追放して即位したが、反乱なども起こり、苦しい王政を強いられた。1637年、清に攻められて降伏。清の皇帝の前で頭を地面につけて謝罪するという屈辱を受けた。1645年には清の文明を称賛した息子の昭顕世子(ソヒョンセジャ)を毒殺した疑いが濃い。

◆英祖(ヨンジョ)[1694~1776年]

異母兄の景宗(キョンジョン)が1720年に20代王として即位したが、わずか4年で亡くなった。当時は英祖が毒殺したという疑惑が宮中に広まった。結局、英祖は1724年に即位して21代王となった。世継ぎの思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めて餓死させたことが汚点として残る。

◆貞純王后(チョンスンワンフ)[1745~1805年]

英祖の二番目の正妻。英祖より年齢が51歳下だった。英祖の息子であった思悼世子は10歳上で、相性が悪かったこともあり、思悼世子を失脚させるために陰で動いた。22代王・正祖(チョンジョ)の時代になってかろうじて罪を免れたが、1800年に正祖が亡くなったときは毒殺説の首謀者と見なされた。23代王・純祖(スンジョ)の後見人となり、キリスト教徒の虐殺事件を引き起こしている。

以上の5人の中で一番疑いが強いのが文定王后で、次が仁祖だ。2人には明確な動機があった。恐るべき悪に手を染めた王妃と国王であった。

(文=康 熙奉/カン・ヒボン)

前へ

1 / 1

次へ

RELATION関連記事

PHOTO写真

TOPIC「Netflix韓流トリオ」特集