ついに最終回の『オクニョ』!実在の人物で最も哀しいのは明宗(ミョンジョン)の人生だった!!

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NHK総合テレビで放送の『オクニョ 運命の女(ひと)』も最終回が目前だ。

このドラマに登場する実在の人物の中で、一番の悲劇をこうむったのが明宗(ミョンジョン)だった。その理由は何なのだろうか。

明宗は1534年に生まれた。父は11代王・中宗(チュンジョン)で、母は中宗の三番目の正室だった文定(ムンジョン)王后である。

明宗が生まれたとき、世子(セジャ/王の正式な後継者)となっていた兄がいた。世子は1515年の生まれで、明宗より19歳も年上だった。

中宗の正室から生まれた王子は世子と明宗だけだったが、19歳も上の兄がいるだけに明宗が王位に就く可能性はとても低かった。

しかし、あきらめなかったのが母の文定王后であった。

(参考記事:『オクニョ』最終回に絶対に知っておきたい!! 「悪の女帝」たちの本当の最期

「世子さえいなくなれば……」

そう考えた文定王后は、自分がお腹を痛めて産んだ明宗を絶対に王にしたいと考え、世子の命を狙った。

しかし、暗殺の危機を乗り越えて、世子は1544年に中宗が亡くなったあとに12代王になった。これが仁宗(インジョン)である。

彼は人徳があり親孝行な王だった。そんな仁宗の命を狙い続けた文定王后。その執念は凄まじかった。

結局、仁宗は即位して約8カ月で急死した。文定王后に毒殺されたと見られている。

仁宗の急死によって、明宗が13代王として即位した。仁宗に子供がいなかったので、弟に出番がまわってきたのである。

明宗が王になったとき、まだ11歳だった。王が未成年で即位すると、王族の最長老女性が政治を代行することになっていた。その役を担ったのが母の文定王后だった。

史実の明宗はどんな王だったのか

これが最悪だった。文定王后は一族で政権を独占し、賄賂政治で不正を横行させた。

当時は凶作が多かった。しかし、代理政治を行った文定王后は民衆の困難に目を向けず、国中に餓死者があふれてしまった。

明宗は頭が良く、心が優しい少年だった。しかし、母が政治を代行しているので、彼はどうしようもなかった。

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