世子と言えば、皇太子のことである。国王が死ねば次の国王になる王子たちであり、非常に重要な役割を担っていた。
その世子の中で、悲劇的な最期を迎えた2人を取り上げてみよう。
1人目は、16代王・仁祖(インジョ)の統治時代に世子だった昭顕世子(ソヒョンセジャ)である。
【関連】『イ・サン』が描いた「思悼世子の悲劇」はどこまで本当?
彼は中国大陸を制覇した清の人質となり、1637年から1645年まで清に連行されたままだった。
しかし、昭顕世子にとってそれは辛い生活ではなかった。むしろ、西洋の宣教師たちが多かった清で、様々な先進的な文明に触れて大いに感化された。
彼は、自分が国王になったときには新しい文明を朝鮮半島に持ち込もうと考えていた。
そして、1645年に人質から解放されて母国に戻った。
ところが、清に侵略されて屈辱を味わった仁祖は常に清に強い恨みを抱いていて、清を称賛する昭顕世子に対して不信感を強く持った。
帰国後、昭顕世子と仁祖は険悪な仲になり、わずか2カ月で昭顕世子は急死してしまった。一説によると、仁祖とその側室によって毒殺されたという。
もし、昭顕世子が王になっていれば、朝鮮王朝はどうであっただろうか。
先進の文明を取り入れて改革が成功したかもしれない。そういう意味では、大変惜しい急死であった。
2人目は、思悼世子(サドセジャ)である。
21代王・英祖(ヨンジョ)の息子であり、小さいころから神童と呼ばれるほど頭脳明晰だった。
しかし、当時の主流派閥だった老論派(ノロンパ)を批判したために、極度に老論派から警戒されてしまった。
思悼世子自身にも問題があり、素行が悪かった。側近に暴力を振るったり、側室を殺したりしたこともあった。こうした素行の悪さが老論派によってさらに歪められて英祖に報告された。
これによって、思悼世子と英祖の親子関係が極度に悪化した。最終的に思悼世子に王位を譲れないと考えた英祖が、息子に自害を命じた。
しかし、思悼世子はひたすら謝罪するばかりで自害しなかったので、英祖は米びつの中に息子を閉じこめてしまった。
結局、その中で餓死してしまった思悼世子。世子の無残な死は、朝鮮王朝の中でも最大の悲劇と言われている。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
前へ
次へ