それは1688年10月のことだった。王宮に8人の男が担ぐ屋根つきの輿(こし)が入ってきた。屋根つきの輿、といえば、相当な身分の人が乗るものだ。しかし、実際に乗っていたのは平民だった。
屋根つきの輿を見た司憲府(サホンブ/官僚の不正を糾弾して風紀を守る役所)の高官たちが、配下の者たちに命じて女性を輿から引きずり降ろし、輿をむざんに焼き捨ててしまった。
女性からすれば屈辱的な仕打ちである。しかし、司憲府の高官たちは当然という顔をしただけでなく、平民が屋根つきの輿で宮中に入ろうとした行為を厳しく罰しようとした。このことを知った19代王の粛宗(スクチョン)は激怒した。
「王子の祖母に対して、なんということをするのか」
張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗(スクチョン)の息子を産んで起こった騒動とは?
女性は張禧嬪(チャン・ヒビン)の実母で、娘の産後の世話をするために王宮の中に入ろうとしていたのであった。
当時の張禧嬪は従一品の品階を持っていて粛宗の息子を産んでいた。母親は平民として宮中に入ろうとしたのではなく、従一品の女性の母親として屋根つきの輿に乗っていたのである。
司憲府のやり方は、国王を侮辱したのと同じことだった。
粛宗は司憲府をやり玉にあげた。
「貴人の母親が宮中に入ろうとしたときに、司憲府がこのように侮辱したという話は聞いたことがない。司憲府はなぜこんなことをしたのか。輿に乗って宮中に入ることは余が許可したものであり、もともと慣例にもあることなのだ。王子の祖母が、王の許可を経て宮中に入ろうとしたのに、これほどの侮辱を受けるとはとんでもないことだ」
粛宗は、王権に対する司憲府の挑戦だと考えた。同時に、粛宗はこの事件を、生まれた王子に対する西人派(当時の主流派閥)の脅迫だと受け取った。なぜなら、張禧嬪の実母をとがめたのは、西人派の高官たちばかりだったからだ。
西人派が、張禧嬪の母親を侮辱した理由ははっきりしている。西人派は、対抗勢力だった南人派(張禧嬪を支持していた派閥)が強くなることを恐れ、あまりに過剰に反応しすぎてしまったのだ。
王子と言っても側室が産んだのだが、他に王子がいない状況においては、西人派は張禧嬪の出産を自分たちの生死に関わる重要事件と捉えた。どんなことをしてでも、この王子が即位するのを防がなければならなかったのだ。
しかし、粛宗の逆鱗(げきりん)に触れてしまった。西人派の大きな失態だったと言えるだろう。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)
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