ハン・ヒョジュが扮したドラマ『トンイ』の主人公。トンイというのはドラマ用にイ・ビョンフン監督が作った名前で、歴史上では淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏といわれている。
この淑嬪・崔氏は1670年に生まれた。
どういう経緯で王宮に入ってきたのか。諸説がある。一番よくいわれているのは、身分が低い女性で王宮の水汲み係だったという話だ。他には、仁顕(イニョン)王后と一緒に王宮に入ってきたという話もある。
粛宗(スクチョン)との出会いで有名なエピソードがある。
粛宗が夜に寝付けなくなって、王宮の中を散策していると、明かりがついている部屋があった。中では、1人の女性が豪華な食膳の前で祈っていた。
「何をしているのか」
粛宗が尋ねると、女性が答えた。
「今日は仁顕王后様の誕生日でございます。今は王宮にご不在ですが、私がお祝いを申し上げております」
その返答に感心した粛宗は淑嬪・崔氏に好意を持った。そして、側室にした……。
この話は出来すぎている。粛宗との出会いを装飾する作り話ではないのか。当時の政治状況を見ると、西人派が意図的に王宮に送り込んだ女性が淑嬪・崔氏だという可能性が高い。その背景とは何か。
1688年に、側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗の長男を産んだ。その翌年には正室の仁顕王后が廃妃となり、張禧嬪が王妃に昇格した。当時は、仁顕王后を支持していた西人派と張禧嬪を支持していた南人派が激しく争っていたが、仁顕王后の廃妃で西人派が没落しかけていた。
劣勢の西人派が挽回するために、粛宗が気に入るような女性として淑嬪・崔氏を送り込んだのではないか。そんな推察も成り立つ。
1693年、淑嬪・崔氏は粛宗の息子を産んだ。しかし、わずか2カ月で早世してしまった。
その翌年の4月のことだ。「張禧嬪の兄であった張希載(チャン・ヒジェ)が淑嬪・崔氏を毒殺しようとした」という告発が粛宗のもとに寄せられた。
王宮は騒然となり、粛宗は重大な決断をした。それは、張希載を済州島(チェジュド)に流罪にしたうえで張禧嬪を王妃から側室に降格させる、ということだった。
王妃の座が空いたので、仁顕王后が復位することになった。西人派が巻き返すことに成功したのだ。
そして、淑嬪・崔氏は、1694年の秋に再び粛宗の息子を産んでいる。後の21代王・英祖(ヨンジョ)である。その7年後の1701年、仁顕王后が亡くなった。淑嬪・崔氏は粛宗に対して「張禧嬪が仁顕王后を呪詛(じゅそ)していた」と告発した。
激怒した粛宗は、張禧嬪を死罪にした。
その後に奇妙なことが起こった。仁顕王后が亡くなって王妃の座が空いており誰もが淑嬪・崔氏の昇格を予想したのに、粛宗はまったく違う仁元(イヌォン)王后を正室に迎えた。さらに粛宗は、淑嬪・崔氏を王宮の外に出してしまった。
なぜ、粛宗は急に淑嬪・崔氏に冷たくなったのか。
ドラマ『トンイ』では描かれていない複雑な関係が粛宗と淑嬪・崔氏の間にあったに違いない。もしかしたら、淑嬪・崔氏は嘘の告発によって張禧嬪を陥れた悪女だったのかもしれない。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)
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