朝鮮王朝では、王の正式な後継者は世子(セジャ)と呼ばれたが、その世子の妻が世子嬪(セジャビン)である。世子嬪は将来の王妃であったが、実際には運命に翻弄される女性も多かった。
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実際、朝鮮王朝では、王の息子が世子に指名されると、できるだけ早く世子嬪を決めるのがならわしだった。
その際の選抜行事が「揀擇(カンテク)」だ。どんな手順で行なわれたのか。
最初に、両班(ヤンバン/貴族階級)の家庭に婚姻禁止令が出た。結婚適齢期のすべての女性が揀擇の対象になるためだ。
次に、両班から未婚の娘の身上書が提出される。書類審査を通った娘は面接審査に臨み、国王の前での最終審査に合格した1人が世子嬪に選ばれた。美貌、教養、体型に恵まれた女性が有利だ。もちろん家柄も大事であり、朝鮮王朝の伝統的な名門の家から世子嬪が選ばれた。
宮中での世子嬪の暮らしを見てみよう。
世子嬪が住む宮殿は嬪宮(ピングン)と呼ばれた。
嬪宮には、内侍府(ネシブ/内官は去勢された男子)から内官が8人ほど来て門番から雑役までこなしてくれたし、その他に多くの女官も働いていた。世子嬪が宮中で問題を起こさずにいれば、世子が王になった時点で世子嬪は王妃になっていった。
さらに、王が亡くなって息子が即位すれば、自分は大妃(テビ)となる。
つまり、世子嬪→王妃→大妃と移っていくことが、朝鮮王朝では女性最高のエリートコースといえる。ただし、このエリートコースを歩んだ女性は朝鮮王朝では1人しかいないと言われている。
それは、18代王・顕宗(ヒョンジョン)の正室だった明聖(ミョンソン)王后だ。つまり、女性最高のエリートコースは、それほど至難の業(わざ)であったのだ。
ちなみに、『雲が描いた月明り』の主人公になっていたイ・ヨン(孝明世子〔ヒョミョンセジャ〕)の妻となった世子嬪は、当時の高級官僚であった趙萬永(チョ・マニュン)の娘だった。
彼女は夫である孝明世子が王になる前に亡くなったので、結局は実生活のうえで王妃になることができなかった。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)
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