韓流時代劇に欠かせない聖地・景福宮(キョンボックン)はなぜ273年間も放置されたのか?

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景福宮は朝鮮王朝の建国当初から正宮だった。それほど重要な場所であったのに、1592年の豊臣軍の攻撃時に焼失してから、再建されずにずっと放置されたままだった。

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その景福宮がようやく再建されたのは1865年のことだった。つまり、273年間も「ほったらかし」にされたのだ。正宮なのに、なぜこんなことになってしまったのか。それは、景福宮が建っている位置に問題があった、という説がある。

実は、景福宮が最初に建設されたのは、朝鮮王朝の創設から3年後の1395年のことだった。

このとき、景福宮の敷地をめぐって激しい論争があった。

儒学者は、「王は南に向かって堂々と政治を行なってこそ王朝が長続きする」という理由から、正門を南向きに作れと主張した。

これに反対したのが仏教の高僧だった。

「南側には火を起こす気脈が満ちている。その南側を避けて、正門を東向きに建てたほうがいい」

仏教側はこういう主張を繰り返して儒教側と対立した。

最終決断を迫られた初代王・太祖(テジョ)は、悩んだ末に正門を南向きに建てることにした。王朝の基本理念に儒教を据えようとしていたので、儒教側の意見を採用したのである。

その末に完成した景福宮。以後の200年間、朝鮮王朝の正宮であり続けたが、1592年に戦乱の中で火事を起こして灰となってしまった。以後、王家は離宮を転々とすることになった。

もちろん、景福宮の再建計画もあるにはあったが、財政の問題がネックになっていた。しかも、景福宮の位置が不吉だという意見が亡霊のように残っていた。つまり、南側に火を起こす気脈が満ちている、というわけだ。

「たとえ再建しても、再び焼失することになったら……」

それが恐ろしくて再建に踏み切れなかった。それによって、景福宮は273年間も放置されたのである。

1865年、26代王・高宗(コジョン)の父親で最高実力者だった興宣(フンソン)大院君は、混乱する内政の中でも、王家の権威を取り戻すために景福宮の再建を無理に進めた。

結果的に、無謀な工事で民衆の税負担が飛躍的に増えて、朝鮮王朝はさらなる衰退に陥ってしまった。

景福宮もそのまま放置しておいたほうが、王朝にとっては財政的な重荷を背負わなくて済んだのだろうが……。

(文=康 熙奉/カン・ヒボン)

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