最終回『オクニョ』の本当の歴史。女帝・文定(ムンジョン)王后はなぜ権力を持てた?

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彼女は1515年に、中宗の長男を産んだ直後に他界してしまい、再び王妃の座が空いてしまった。

その結果、三番目の正室として迎えられたのが文定王后だった。つまり、文定王后は、自分が思いもよらぬ形で王妃まで上りつめたのである。

一方、中宗の後継ぎは章敬王后が産んだ長男で、中宗が1544年に亡くなった後に12代王・仁宗(インジョン)として即位した。

文定王后も1534年に中宗の二男を産んでいるが、長男が即位しただけに、二男に王位がまわってくることは難しかった。

ところが、仁宗が即位して8カ月で急死してしまった。これには、「文定王后が毒殺したのではないか」という疑いがあり、その可能性もかなり高い。

結果的に、文定王后としては、次から次へと自分に有利な状況になっていって、最終的に大妃まで上りつめたのである。

しかし、その裏では、手先となった鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)や、実弟の尹元衡(ユン・ウォニョン)が悪行を重ねていた。その末に、文定王后は大妃になれたのだ。

大妃となった彼女は、自分の息子が幼くして王になったことで摂政を担い、私利私欲をあからさまにした悪政を続けた。

それは、『オクニョ 運命の女(ひと)』で描かれたとおりだった。このように、悪女の文定王后が権力を持ったことが、朝鮮王朝にとって不幸だった。

(文=康 熙奉/カン・ヒボン)

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