彼女は「朝鮮王朝三大悪女」の1人に数えられているが、あくまでも文定王后の手先として動いたのであり、巨悪はむしろ文定王后であった。
朝鮮王朝時代、幼い王を補佐するという名目で女帝のように振る舞った王妃が何人もいるが、その中でも一番悪政を行って民衆を困らせたのが文定王后だ。
1550年代は飢饉が続いて餓死する人も多く出ていた。それなのに、文定王后は実権を持ちながら庶民を救済する対策を取らず、身内で高官を独占して政治を腐敗させた。まさに「悪の女帝」と言っていい。
この文定王后の弟が尹元衡だ。姉が王妃ということで出世を果たし、悪政の実行役となった。
姉が姉なら弟も弟で、こういう人間に統治されたのだから、朝鮮王朝も1550年代は不幸であった。
この尹元衡の妾となっていたのが鄭蘭貞であり、2人は共謀して尹元衡の妻を殺した。そして、まんまと鄭蘭貞が妻になった。
このように、文定王后をトップにして下に就いたのが尹元衡と鄭蘭貞。この3人が「悪のトライアングル」を構成した。
ちなみに、文定王后はとことん政治を腐敗させた末に1665年に絶命した。
この死で命運を断たれたのが尹元衡と鄭蘭貞だ。この夫婦は強力な後ろ楯を失って恐怖にかられ、王宮から逃げ出した。大きく怨みを買っていたのを自覚していたのだ。
結局は、2人は逃げきれないと覚悟して自害した。その最期は「悪は滅びる」の典型となった。
こうした3悪人の被害をもろに受けたのが明宗だ。
彼はせっかく王になったのに、実母と叔父夫婦の悪事を見ているだけしかできなかった。そのことでどれほど心痛がひどかったか。
ようやく3人は明宗の前から姿を消したが、彼が受けた心の傷は癒えることがなかった。結局、明宗は文定王后の死後2年で寿命が尽きた。母の悪事が心やさしき国王の命を奪ったと言っても過言ではない。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)