3年前に断行された“エリートスポーツ”の大韓体育会と“生涯スポーツ”の国民生活体育連盟がひとつになった団体統合後、大韓体育会は洪水のように降り注ぐ政策によりこの上ない混乱に陥った。
現場の声を反映せず、エリートスポーツの弊害だけを浮かび上がらせた偏向的な視線は、均衡のとれたスポーツ発展を邪魔するという指摘もある。
もちろん、主体性の覚醒を通じたスポーツ界自らによる強度の高い改革が未熟であることは否定しないが、政府を始めとした政治界が主導するトップダウン型のスポーツ政策には言いたいことが多い。
国際競争力でもあるエリートスポーツの価値そのものが落ちるのは、バランス感覚を失ったスポーツ政策として非難されてしかるべきだ。
その結果、エリートスポーツの価値は急激に落ちてしまうし、その余波が現場にも表れているのが共通の見解だ。
スポーツはもっと活気あふれたものであるし、客観的な戦力をも超越するメンタルの強さ、つまり士気が充満しなければならないが、今はそうではないようだ。
戦力を構成する物理的な統合を乗り越える力をケミストリーというが、これはスポーツ界ではいくら強調しても度が過ぎない徳目だ。
なぜそれを切り離さなければばならないのか。士気が消え失せ、科学的によって編み出されるべき熱いエナジーが、現場から姿を消したのだろうか。その理由は政府の未熟な政策によるからだろう。