それでも腐ることなく、毎晩ランニングをしていたのだが、そのソ・ガンスだけはユニホームを交換できずにいた。韓国選手が10人以上いたのに対し、日本選手は8人しかいなかったからだ。
そんな彼の浮かない表情に気づいたのが、小野、小笠原、中田浩の3人だった。彼らはソ・ガンスを日本の選手が宿泊するフロアまで連れていき待たせると、1枚の日本代表ユニホームを手にして戻り、それをソ・ガンスに手渡したのだ。
ソ・ガンスは言う。
「おそらく、ボクはワールドユースを戦うメンバーには選ばれない。だから、どうしても日本の選手とユニホームを交換したかったんだ。日本とはU-16でも対戦したけど、ユニホームを交換できなかったし、たとえ予備メンバーでもアジアユースに参加して日本の選手と交流を持てた証がほしかったんだ。
だから3人がボクのために走り回っているのを見たとき、ホントにうれしかったよ! このユニホームを励みに2002年に向けてがんばりたい」
2002年。それは別れ際に日韓両国の選手が何度も口にした言葉だった。思い出すのはイ・ドングッの一言である。
「日韓ともに今回のユース代表で2002年のワールドカップを戦えたらいいなぁ。その日がくるまで互いに切磋琢磨し、そして4年後にも今回のように夜通しで語り合いたい!」
くしくもイ・ドングッの言葉と似たようなことを、小野伸二も口にしていた。
「あの夜のことは絶対に忘れない。これからも、あんな交流があればいい。韓国とはこれまで何度も対戦したけど、お互いに頑張って、アジアから世界に飛び出したい」
使う言葉も、育った環境も異なる2人が語った共通の未来。今までは宿命のライバルということだけに終始しがちだった日韓だが、ライバルであると同時に、最高のパートナーになろう。そう言っているようだった。
付け加えるなら旧世代のパク監督も、日韓は宿命のライバルであると同時に、同伴者になるべきだと語った。
その意思の表れが、 2度の日韓戦の直後に取った行動だったと思う。
試合終了のホイッスルが鳴った後、韓国の選手たちは自軍のベンチには戻らず、まずは日本のベンチ前に整列し、清雲栄純監督以下、日本のスタッフに一礼したのだ。
それは、日本の実力を認め、対戦できたことを感謝するという意思の表れで、 パク監督が試合前に指示していたものだった。
「負けても勝っても、選手たちには日本のベンチに挨拶するように指示した。日本は今後もライバルだけど、我々のパートナーでもあるからね」
2002年ワールドカップが開催されるとき、今回の大会に参加した日韓両国の選手は23歳になっている。
彼らの今後にどんな未来が待ち受けているかはわからないが、これだけははっきりしている。
彼らは新しい時代の扉を切り開く可能性を持っている。 日韓サッカー新時代の夜明けは、もう目の前にきているのかもしれない。
あれから20年の歳月が過ぎたが、今でも“チェンマイの夜”のことは忘れられない。あの夜の出来事こそが、今でも日韓サッカー報道に携わる私の原点になっている。
(文=慎 武宏)