サッカー韓国代表FWソン・フンミン(27・トッテナム)が、世界でも屈指のトッププレイヤーと評価されるまでに至ったのは、父親ソン・ウンジョン氏(57)の存在がある。
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しかし、ソン・ウンジョン氏の現役時代は息子とは打って変わって不運なものだった。
韓国のサッカー名門である明知大で各大会を席巻し、世代別代表にも選ばれていたソン・ウンジョン氏。そんな彼がプロ選手として残した記録は、Kリーグ通算“37試合7ゴール”がすべてだったのだ。
1985年に尚武(現・尚州尚武FC)でKリーグデビューを飾ったソン・ウンジョン氏は、現代ホランイ(現・蔚山現代FC)や一和天馬(現・城南FC)などを転々とし、プロ選手として5シーズンの間プレーした。
167cmと小柄ながら爆発的なスピードを誇り、前線なら中央でもサイドでもこなせたソン・ウンジョン氏。彼の才能が花開かなかった背景には“ケガとの戦い”があった。
一和天馬時代の1989年5月9日、ソン・ウンジョン氏は試合終盤にサイド突破を試みた際、グラウンド外側の凹みに足を取られ、足首を骨折する重傷を負った。
ソン・ウンジョン氏は過去に本紙『スポーツソウル』のインタビューに応じた際、負傷した当時の状況をこう振り返っている。
「足首を痛め、出血もあったが、すでに交替枠を使い切っていた。そのまま我慢してプレーしたら、ゴール前でクロスを受けて得点したんだ」
「根気強く粘り、なんとか試合を終えたが、その夜は眠れなかった。とても苦しかった。結局、その後スパイクを脱ぐ選択をしたが、直後の1年間は試合する姿がよく夢に出たよ。涙が出てむなしかった」
致命的な重傷を負った当時のソン・ウンジョン氏は、現在のソン・フンミンと近い年齢の28歳という若さで、現役を退くことになった。
辛い思い出が残った現役時代だったが、あの経験があったからこそ今の姿があるのかもしれない。
「韓国でプロ選手をしたと言うのが恥ずかしいほど、(当時の自分は)競争力が足りなかった」と話すソン・ウンジョン氏だが、現役時代からサッカーに対する情熱は他の追随を許さなかった。「“宿の鬼”というあだ名が付けられた」と本人も認めるほどだ。ソン・ウンジョン氏の現役生活は、チーム練習以外に個人の日課とサッカーがすべてだったのだ。
不意のケガで現役を早く終えてしまったとはいえ、本人はただ運が良くなかったとは考えなかった。スピードという持ち味があったが、もっと基礎技術や実戦で活かせるスキルを備えていれば、ケガも防げたかもしれないと考えた。
韓国内ではよく知られた話だが、ソン・フンミンは小学校や中学校でサッカー部に所属せず、父親ソン・ウンジョンから直接指導を受けていた。ソン・ウンジョン氏は高校進学までリフティングなどの基本技術を徹底的に息子に練習させ、高校生になって初めてシュートや戦術練習に取り組ませた。
幼いころから勝負の世界に放り出され、試合だけでサッカーを学びひざを悪くし、いざ大人になった才能を発揮できない選手をソン・ウンジョン氏は多く見てきた。こうした過程が、欧州サッカー界で活躍するソン・フンミンの礎を築いたのだ。
ソン・ウンジョン氏の指導法には、ソン・フンミンが所属したハンブルクやレバークーゼン、トッテナムのユース関係者も関心を寄せるほどだった。
現在、ソン・ウンジョン氏は自身の指導プログラムを基に、韓国内で『SONフットボールアカデミー』を運営している。
あまりに短い選手生活だっただけに、現役時代のソン・ウンジョン氏が写っている映像や写真は多く残っていない。
だが、本紙『スポーツソウル』のデータベースに、運よくソン・ウンジョン氏の現役時代の写真が数枚残されていた。
上記の写真には、Kリーグ発足初期を想起させるユニホームやスパイクを着用し、猛然とした勢いでドリブルするソン・ウンジョン氏の姿が写っている。
惜しくもその才能を開花できずにスパイクを脱ぐことになったソン・ウンジョン氏。だが、今やトッププレイヤーへと成長した息子ソン・フンミンの活躍を、父親として嬉しく思っていることだろう。
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